コツコツと硬質な音をさせて八神庵はマンションの中を歩く。自分の部屋の前に立ち、鍵を取り出すことなくドアノブに手をかけた。 庵は、一人暮らしである。けれど、部屋には電気がついていた。 扉はすんなりと開き、中からは複数の笑い声が遠い場所から湧き上がっている。バラエティ番組でも、観ているのだろう。玄関には、見慣れた靴があった。特に何も思わず、靴を脱ぎ鍵をかけてリビングへと向かう。置物のようになっていたテレビが、本来の機能を発揮しており、それに向かうようにおいてあるソファに、人の姿があった。腰で座っているらしい男は、きちんと座れば肩がソファの背より出てくるはずなのに、頭の先しか見えていない。――眠っているのだろうか。 肩からベースを下ろして、キッチンへ入る。電気ポットに水を入れると「あ、俺も!」 ソファに座っている男が振り向き、ソファの背に組んだ腕を乗せて、その上に顎を置いた。 草薙京――八神庵が、命を奪うために追いかけているはずの男は、自宅に居るようにくつろいだ様子で、庵に催促をしている。 眉間に皺を寄せた庵は、京の言葉を黙殺した。「あ、無視すんなよな」 庵が何も言わないことに慣れている京は、機嫌を損ねた様子も無く立ち上がり、近づいてきた。そんな京の姿に目を向けることなく、庵は眉間の皺をより深くする。「珈琲、飲むんだろ。ついでに俺にも淹れてくれよ」 なぁ、八神――そう言って、京はいつのまにか食器棚に増やしていた自分用のマグカップを取り出し、簡易のドリップ珈琲の袋を二つ取り出した。袋を開けてマグカップにセットし、カチンと音をさせて沸いたことを告げた電気ポットを、庵の前に手を伸ばして取り「おっと」 湯を注ぐ前にドリップ袋の中に指を突っ込み、珈琲の粉末の真ん中に穴を開けてから、湯を注ぎ始める。「八神も、ほら――」 ひび割れる音がしそうなほど、こめかみに不機嫌を浮かべて軋ませる庵の様子に気づいていないはずは無いのに、京は庵のマグカップを取って自分のものとおなじように、湯を注いだ。少し注いで蒸らす時間をとり、再度注ぎ始める京は機嫌がいいわけでも悪いわけでもないくせに、軽い鼻歌まじりに珈琲を淹れている。「ほら」 ドリップパックを捨てて、マグカップを持ち上げ庵に差し出す京。差し出されたカップを見て、京の顔を見て、庵は目に力を込めた。「なんだよ、機嫌悪ぃな。俺がテメェん家に勝手に上がりこんでることを、いまさらムカつくとか言わねぇだろ」「――その格好は、何のつもりだ」「ん?」 不思議そうに小首をかしげる姿がしらじらしい。舌打ちをして京の手から奪うようにマグカップを取り、ソファへ行く。のしのしと不機嫌を全身にまとわせ、どかりと座る庵の姿を喉の奥で笑いながら京が追った。「なんだよ。――なつかしいだろ?」 ほら、と両手を広げて見せる京は、庵と合間見えたころの服を――背に日輪を背負った学ランを着ている。 庵が不機嫌になっている理由は、それだった。「ちょっと、キツイんだけど着れねぇことはなかったからさ。懐かしくて」「わざわざ、その格好でいる理由は、何だ」 地の底を這うような庵の声に、にこりとして顔を寄せる。「懐かしいだろ」「くだらん」「初心に返るっていうかさ、なんか、そんな感じっていうか――――ま、単にオフクロが捨てずにとっていたものが、衣替えをしているときに出てきたから、袖を通してみたら着れたんで、見せに行こうかと思っただけなんだけどよ」 ソファに座り、珈琲をすする京に怪訝に目を細める。「その格好で、出てきたのか」「悪いかよ」 何のこだわりも無い声に、音も無く息を吐いた庵がリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。「なぁ、懐かしいよなぁ――八神。なぁ……始めは、俺はテメェがイカれちまってると思ってた。今でも、イカれてるとは思っているけどさぁ…………まさか、俺もそうなっちまうとはなぁ――あんときゃ、想像すらしなかったぜ」 庵に語るようであるのに、独り言のように珈琲を見つめてしゃべる京の横顔を、目の端で見ながら庵は珈琲に口をつける。「人のことを、殺すだなんだと言ってきてよぉ…………家のことだのなんだのといわれても、ピンとこなかった――――それが、いつのまにか俺個人のことに変わっちまって……そっからかなぁ」 語るように、自分の中を探るように、京は目に映るものではないものに目を向けている。「妙なやつらが出てきて、わけのわかんねぇ事になっちまって、それが終わったと思ったら、また意味不明なやつらが出てきて…………それなのに、テメェは何も変わらず俺をまっすぐ追いかけて、殺す殺す言ってきやがって――」 くすり、と京の唇の端に笑みが乗った。「そんぐれぇ、女にもまっすぐになってやったら、いいんじゃねぇか?」 からかうような目を向けられて、フンと鼻を鳴らした庵が珈琲を置いた。「どうでもいい」 庵が、立ち上がる。「そんなことだから、八神にフラれた女が、俺のところに来るんだろ。ユキに勘違いされたら、どうしてくれんだよ」 楽しげな声に、庵が立ち上がった意図を察する剣呑さが浮かぶ。それに気づいた庵の口の端が持ち上がった。「いちいち貴様のところへ行くような女が、俺の周囲に居ると思うか」 肩をすくめた京が、立ち上がる。「ひでぇ男だな――」「不要だと言っているのに、勝手につきまとってくるだけだ」 非難されるいわれは無い、と振り向く庵の横に立つ。「じゃあ俺は、うっとうしいって言ってんのに、勝手に付きまとってくるテメェを相手にしてんだから、相当にやさしい男だよなぁ?」 片目を細め、にやつく京に呆れを含めた目を細めた。 ふい、と顔をそらした庵が玄関へ向かう。肩をすくめた京も、そのあとを追った。「で、何処でやるんだよ」 靴を履く背中に声をかける。「何処でもいい――邪魔が入らないところならば、な」 ガチャリ、と鍵が開いてドアが開く。「ま、そりゃそうだ」 靴に足を入れてトントンとつま先を床で叩き、京も外へ出る。 初めて出会った、初めて拳を交えた時の服を着て、十七年前とは違う炎を拳に乗せて、宵闇の月の明かりに二人にしか舞えぬ剣呑なる悠久の舞を行うために――――。 2012/11/15