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名前を呼んで

 日の光を含み輝く緑の合間をくぐりぬけ、彼自身の持っているものの中で、一番粗末な木綿袴の裾をはしょり混じった真田幸村を、里の子どもたちはもろ手を上げて歓迎し、すぐさま彼の回りに集まった。
 ある者は武術を教えてくれとせがみ、ある者は木登りをしようと誘い、またある者は探検をしようと言って、幸村の袖を引っ張り誘う。
 子どもたちは、幸村が着用しているものよりも粗末な、色あせ擦りきれた着物を着ていた。つんつるてんの、丈の足らない者もいた。それだけで、子どもたちと幸村の育ちの違いが見てとれる。が、子どもたちはそんなことに頓着をしないし、幸村もまた気にしていない。里の子どもたちにとって、幸村は兄貴分のような存在であり、幸村にとっても、彼らは弟たちのようであった。
「ならば、獣追いをいたそうか」
 口々にしたいことを言う子どもたちに、幸村は提案した。それならば、彼らの夕餉の足しにもなるし、有り余った子どもの元気を満たすことも可能と、一石二鳥であった。
 わぁいと子どもたちが歓声を上げ、ウサギかタヌキあたりを狙おうということになった。幸村だけならば、イノシシのような大型の獣を捕らえることも訳は無いが、子どもたちの手には余る。怪我をさせてはいけないと、そういうことになった。
 子どもたちはそれぞれに工夫し、獣の道を探り、蔓を編んで罠を仕掛け、小動物の気配を探った。幸村も土にまみれることなどかまわずに、地に這い木に登り、子どもたちと同じ目線で獲物を探した。
「いたぞ!」
 子どもの一人が声を上げ、わっと声の出たほうに走る。子どもたちは息を殺し、ウサギが後ろ足で立ち上がり、ひくひくと鼻をうごめかすのを見つめた。
「どうする」
「そっと広がって、追い詰めよう」
 相談をした子どもたちが、ちらりと意見を仰ぐように幸村を見た。
「なるべく草をゆらさぬよう、風向きを気にしつつ包囲せねば、匂いで気付かれるぞ」
 幸村も作戦に賛成であるらしいことに、子どもたちは安堵した。
「わかってる」
 子どもたちは生意気な返事をして散った。
 それを、幸村は見守る。
 子どもたちは、ゆっくりとウサギを囲むように広がりつつ、距離を縮めていく。ウサギは草を食み、それに気付く様子はない。これならばうまくいく、と思った瞬間、ふいにウサギが耳を動かし飛びあがり、脱兎となった。
「あっ!」
「逃げたぞ」
「追え、追えっ!」
 子どもたちが走り、幸村も追う。ウサギは、捕まえようと手を伸ばした子どもの脇をすりぬけ、走った。子どもたちは、ウサギを追い込むように走る。
 右に左に方向を変え、ウサギは逃げる。子どもたちはその動きを目で追い、仲間の位置を意識しながらウサギを追い詰める。連携のとれている彼らの姿に、幸村は感心をした。このぶんならば、自分が手を出さずともウサギを捕まえられるのではないか。
 そう気をゆるめかけた幸村は、腰を落とし足に力を込めた。戦場で見せるのと同じ速度の、いや、それ以上の疾駆をした幸村が、ウサギの横を走りぬける。
「わぁあああっ!」
 目当ては、ウサギに夢中になりすぎて、足場を確認せずに進み、草に隠れて見えなかった谷の淵で、体勢を崩している子ども。両手をグルグルと回して、前に後ろに揺れている。落ちてしまえば、小さな子どもはひとたまりもない。
「ああっ!」
 子どもたちの悲鳴が上がる。なんとか持ちこたえていた体勢がついに崩れ、足を滑らせた子どもの身が中空に浮いた。
「くそっ」
 幸村はためらうことなく、自分の体を谷に投げ、子どもに向けて腕を伸ばした。
「受け取れっ!」
 幸村は、駆け寄り集まった子どもたちの中に、掴んだ子どもを放り投げた。
「わあっ!」
 子どもが無事、地面に落ちたのを確認し、泣き出しそうな彼らを安堵させるため、笑みを浮かべて叫ぶ。
「佐助に知らせてくれ!」
「幸村様ぁ!」
 谷を覗いた子どもの目に映る幸村が、みるみる小さくなっていく。やがて谷底の川に水しぶきを立てて、
幸村は影も形も見えなくなった。
「幸村様あぁあああっ!」
 子どもたちの呼びが、むなしく山に響いた。

   ■□■□■

 幸村が谷底に落ちたと、子どもたちが泣きながら報告をしに来た。それを聞いてすぐ、彼が落ちたという場所に駆けつけた猿飛佐助は、谷の川沿いに下流へと足を急がせた。
 川は深く、落ちた衝撃で川底に体を叩き付けられるということはまずない。常人の域を超えた身体能力を持つ幸村は、水に落ちるときに空中で体勢を整え、衝撃を最小限にすることも出来ただろう。
 だが、無傷であるとは限らない。
 流れに呑まれて水面に浮かぶ事が出来ず、川底に転がっている大岩に体をぶつける場合がある。そのまま流れ続ければ、命を失うこともありえた。
 無事でいてくれと、祈りながら走る佐助の元に、探索のため飛ばしていた忍烏が舞い戻ってきた。くるりくるりと旋回し、下流へと飛んでいく。その後を追った佐助は、古めかしい猟師小屋の上に忍烏が止まるのを見た。どうやらその小屋に幸村がいるらしいと、佐助は少し気持ちをゆるめる。
 楽観は出来ないが、川から引き上げられたというだけでもありがたい。幸村にもよく懐いている忍烏の様子から、彼がある程度無事であることもわかった。
 猟師小屋の前に立った佐助は、周囲に目を向け、小屋の中に人の気配が一つしかない事を確認する。それが幸村である事に気づき、佐助は意識せず口元をほころばせた。
「失礼しますよっと」
 からりと戸を開ければ、そこにいたのは間違いなく幸村だった。囲炉裏の炭をつついていた彼が、佐助に顔を向ける。ざっと見たところ、目立った外傷は見受けられなかった。胡坐をかき、くつろいだ様子である。ひと房だけ長い後ろ髪が解かれているのは、乾かすためだろうか。
 出かけたときとは違う、着古された着物を身に着けている幸村に、佐助は笑みを浮かべて近付いた。
「ああ、よかった。もう、ビックリしたぜ、旦那」
「どなたか」
 え、と佐助は足を止める。
「すまぬが、甚吉は出かけておる。すぐに戻るが、何用だろうか」
 立ちすくんだ佐助は、幸村を見た。
 打身や擦り傷らしいものはあるが、大きな外傷は見えない。
「えっと、旦那?」
「俺の、知り合いだろうか」
 佐助に体を向けた幸村が、困ったように眉を下げ、頬をかいた。
「情け無い事に、川に呑まれて少し記憶がこぼれてしまったらしいのだ」
 申し訳ないと頭を下げる幸村の目は、正気だった。本気で、佐助の事を知らないと言っている。
「――冗談、だよね」
 佐助の理性は、現状が嘘でも冗談でも無いと理解をしている。けれど心が納得をせず、佐助の頬を引きつらせた。
 心底申しわけなさそうに、幸村はもう一度頭を下げる。
「申し訳ない」
 その首に、あるべきはずのものが無い事に、佐助は気付いた。
「旦那……。六文銭は、どうしたのさ」
「え」
「六文銭だよ。真田の家紋の」
 何の事かと、幸村が首を傾げる。苛立ちに似た焦燥と、恐怖に近い寒気が走った。
 佐助はずかずかと幸村の傍に寄り、腕を掴んだ。
「とにかく。帰るよ、旦那」
「帰る? 俺の家は、ここだ」
「記憶がこぼれたんだろ。俺様が、旦那の帰る家を知っているから」
 ほら行くよ、と立たせようとする佐助の手を、幸村が振り解いた。怪訝そうに眉根を寄せて、佐助を見る。
「お前は、何者だ?」
「何者って」
「俺は、甚吉の兄、幸村だ」
「自分の名前、わかってんじゃん」
 記憶の全てがこぼれたわけではなさそうだと、佐助は幸村を見る。佐助に向けられる彼の顔は、まったくの他人を見るそれだった。
(自分の名前は覚えているくせに、俺様の事を覚えていないなんて)
 薄情な主だなと、佐助は軽く考えた。すべての記憶が流されていないのであれば、すぐに思い出すだろう。
(旦那が俺様を忘れるなんて、有り得ないんだから)
「旦那に弟なんて、いないんだよ」
「俺には、弟と妹がいる。甚吉と、おつねだ」
「それって、この小屋の人のこと? 旦那ってば、この家の人に兄弟だって言われたわけだ。まったく、すぐに何でも信じちゃうんだから。……ま、いいや。とりあえず帰って、無事だって事を大将に報告しなきゃ。ここん家へのお礼は、そのあと改めてするとして。――帰ろう、旦那。説明は、帰りながらするからさ」
 ふたたび佐助が幸村の手を取ろうとしたときに、扉から声がかかった。
「兄ちゃん!」
「おお、甚吉」
 緊張を漂わせた声に、幸村がゆったりと親しみを込めた声で返答をした。振り向いた佐助は、枯れ枝を満載にした背負子を負っている少年を見た。その顔が、憎しみと不安に彩られている。
「そいつ、姉ちゃんをかどわかした奴の仲間だ! 兄ちゃんを、どうするつもりだ」
 え、と佐助が驚くと同時に、甚吉が背負っていた木の枝を投げてきた。
「出ていけ!」
「いや、ちょっとちょっと。姉ちゃんをかどわかしたって? どういう事か、俺様さっぱりわかんないんだけど」
 投げられる小枝を全て受け止める佐助の背後で、気配が膨らんだ。ぞくりと背骨を震わせた佐助は、思わず戸口へ飛びすさる。
「貴様が、おつねを浚ったのか」
「え。ちょっと、旦那」
 ゆらりと立ち上がった幸村が、心張り棒を掴んだ。
「追い払ってよ、兄ちゃん」
「まかせておけ」
「いや、あのさ。俺様の話を聞いてくれよ」
「問答無用!」
 唸りをあげて、心張り棒が佐助に迫る。槍を得手とする幸村が、心張り棒を自在に操り佐助を仕留めんと襲いかかる。
「うわっ、ちょっと、ちょっ」
 紅蓮の鬼と称されるほどの猛将である幸村が、容赦なく佐助に打ちかかる。交わしつつ小屋から飛び出し、佐助は幸村に言葉をかけようとして、ギクリと身をこわばらせた。そこに幸村の突きが、唸りをあげて迫った。
「っ!」
 佐助は飛び上がり、小屋の屋根に上って、そのままその場を後にした。ちらりと振り返れば、豆粒ほどの大きさになった幸村と甚吉が、小屋の中に入っていくのが見えた。
 屋敷に向けて足を急がせながら、佐助は先ほどの幸村の顔を思い出す。
 その顔は、本気で相手を屠り排除しようとする、佐助には決して向けられるはずの無い、敵意に彩られた若虎のそれだった。
 佐助は戦場で見慣れたその顔が、自分に向けられるとは夢にも思った事が無い。自分は常にその表情の横にあり、彼を援護し守る役。今までも、これからも変わらずに。
 そういう立場であり続けることは、考える必要も無いほどに当たり前の事実だった。
 それが、あの瞬間に崩れた。
 衝撃が大きすぎれば、人の心は凪ぐという。
 けれど佐助は、驚くほど冷静な自分を、忍であるからだと判じた。
 動揺をしても事態は解決に向かわない。忍とは常に冷静に物事を判断し、解決に向けて一番有効で手っ取り早い手段を、たとえそれが非情なことであっても取るものだ。
 とりあえずこの事は、すぐにでも幸村の主である武田信玄に報告をせねばと、木々の間を抜けて屋敷に戻った。
 佐助を信頼し、重用している信玄は、佐助の直接の主である幸村を経由しなくとも、忍という身分がどうこうなどと言うことなく、彼の言葉をそのまま耳に入れ、声をかける。
 佐助は遠慮なく信玄の私室に入り、事の次第を報告した。
「ってなわけで、大将が行って喝を入れてくれさえすれば、旦那もすぐに思い出すと思うんですけどねぇ」
 気楽な調子で報告をしているが、佐助の内心は穏やかではない。それに気付かぬ信玄ではないが、ふうむと腕を組み佐助を見て、細く長い息を吐いてから、佐助の予期せぬ言葉を――おそらくは、佐助がもっとも嫌がる言葉をかけた。
「そういう命運なのやもしれんな」
「――は?」
 暑苦しいほどの師弟関係を結んでいる信玄と幸村。盲目的に敬愛している信玄の一喝があれば、谷底へ落ちた時の衝撃など一瞬で噴き飛び、記憶も蘇るだろう。信玄もそれに同意し、すぐさま案内しろと命じるに違いない。
 そう踏んでいた佐助は、意外な言葉に耳を疑った。
「大将? 今、なんて」
「そういう運命であるのかもしれぬと、言った」
 たっぷりと、言葉が佐助に浸透するのを待ってから、信玄は続ける。
「戦場など、出ぬにこしたことは無い。人が人を斬り、命を奪う。そこに憎しみが生まれ、恐怖が生まれ、凄惨な景色が残される。そのような場所から遠ざかる人生を歩むのも、あやつにとっては悪いことではない、と申しておる」
 ぽかんと口を開け、佐助は信玄を見つめた。佐助の理性が、理解を拒絶する。
「戦とは無縁の生活もまた、ありなのかもしれんな」
 信玄は腰を上げ、驚愕する佐助を置いて部屋を出た。
 身じろぎすらも忘れた佐助の耳に、信玄の言葉がこだまする。
 信玄は、幸村をこのままにしておく気でいるのか。あれほどに信頼しあい、情熱を傾け育ててきた幸村を、取り戻そうとは思わないのか。
 拳を握った佐助の脳裏に、敵意を向けてくる幸村の顔が浮かんだ。本気で自分を排除しようと、打ちかかってきた幸村。そこには、寸分の迷いも無かった。
「あんな顔で、俺様を見るなんて」
 佐助は今まで、さまざまな幸村の顔を見てきた。色々な表情を、彼に向けられてきた。佐助に向けられるそれらは全て、根底に全幅の信頼というものがあった。傍にいて当たり前であるという、ゆるぎない親しみの基盤の上に、幸村はさまざまな感情を乗せて佐助を見、名を呼んだ。
(それなのに、あんなふうに敵意と猜疑のみで構築された顔を、向けられるなんて)
 凪いでいた佐助の心がさざめく。
(俺様のことを、すっかり忘れてしまうなんて)
 首に六文銭のない幸村を思い出し、佐助は鋭く目を細めた。
「冗談、きつすぎるぜ」
 血濡れた場所に、引き戻したいわけではない。信玄の言うように、人を屠ることなく穏やかに過ごせることは、良いことだろう。
 けれど。
 佐助は見えぬ何かを見据え、立ち上がった。
 このままでいいはずはない。自分に打ちかかってきた幸村の技の冴えは、あんなところで埋もれさせておくものではない。彼の本質が根っからの武人であることを、佐助は知り過ぎるほどに知っていた。
 佐助の意識が、薄氷のように澄んだ。
 信玄の手を借りる必要は無い。
 彼を、自分が取り戻す。
 腹を据えて、佐助は呟く。
「必ず、もう一度、俺様の名前を呼んでもらうよ、旦那」
 あんたは甲斐の若虎。 紅蓮の鬼、真田幸村なんだから――。




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