ぼんやりと、佐助は草屋敷の中で天井を眺めていた。 「母親、ねぇ」 自分の言葉に眉間にしわを寄せ、横を向く。まったく面白くない気分になっているのは、何故なのだろうか。 「母親、か」 吐息と共に呟いた佐助は、体を丸めた。事の発端は、沖が戻って来、かつ手が空いたことにあった。いや、もっと前の話になるだろうか。 沖は、女忍である。人里に紛れ込み、諜報を行うのが得意な彼女は、人並みの容姿であった。肉置きの良い沖は、どこから見ても百姓の女にもなりうるし、飯屋の女にもなれた。そこそこの貫禄もあるが、男を誘惑できなくもない。人好きのする彼女の容姿に老人は警戒を解き、子どもはすぐに懐く。そのような、女であった。 「沖、帰ったのか」 草屋敷の中で彼女に気安く声をかける仲間の中で、佐助は影にまぎれるようにして道具を磨いていた。 「なんだい。愛想が無いねぇ」 そんな佐助に気付いた沖は、ふとましい腕で佐助を抱きしめ、胸に彼の顔を沈めた。 「んぶっ」 逃れようと思えば、逃れられたのかもしれない。けれど、そうすれば場に水を差すことになる。それに、佐助は沖のことが嫌いではなかった。 「見ないうちに、少しは大きくなったかい?」 自分の子どもであるかのように佐助を扱う沖に、憮然とした顔をしたまま佐助は抱きしめられていた。鼻腔に、普段嗅ぐことの無い、なにやらなつかしい甘さをもつ沖の肌の香りが入り込む。それは少し、弁丸の――佐助の大切な、ちいさな主の匂いに似ていた。 「そうそう。若様付になったんだって?」 沖が草屋敷を出て、探る先の国の民のフリをしながら過ごした年月は三年。その間に佐助は弁丸付となった。 「若様の忍になるなんて、すごいじゃないか」 ほこらしげな顔をしてくる沖に 「そんなんじゃねぇよ」 ため息を漏らした。 「ただの、子守役」 憮然とした態度に、あらま、と目を丸くした沖が佐助の頭を撫でた。 「人の世話が出来るようになったんなら、立派な大人だね」 その言葉と笑みがくすぐったくて、撫でてくる手を払う。 「俺様は、戦忍だぜ? 子守なら、侍女とかに頼めばいいだろう。同じ忍に頼むんだって、沖みたいなのがすりゃ、いいんじゃない」 口から出たのは、けっして本心では無かった。弁丸付となって、二年と三月。佐助は、まっすぐな幼君が気に入っていた。自分に良く懐き、ころころと表情を変える彼の、全身を委ねてくるような態度に始めは戸惑い、驚き、鬱陶しいと思っていたものが、いつしか慈しむものという認識に変わっていた。けれど、それを他の者に悟られるのは、なんとはなしに気恥ずかしく、佐助はいつも、このように素っ気無く、迷惑がってみせる。仲間も、それが佐助の照れ隠しのようなものだとわかっていたし、今回もそれで済むはずであった。けれど―― 「おお、なれば丁度良い。沖ならば適任だろう。ひさしぶりに帰って早々だが、佐助の戦忍としての技は十二分にすぎるゆえ、これから任務も増えていくだろうし、子どもはやはり、母を求めるもの。実の母ではないが、沖のような女子なれば代役も十分に務まろう。万一のことがあっても役に立つし、これより若様が成長なさるにつれて覚えてゆかねばならぬさまざまなことも、沖ならば教えてしんぜることが出来よう」 「――え」 それがよい、それがよいという声があちらこちらから上がる。戸惑う佐助を他所に 「よし、ではそのように致せぬか、進言してみよう」 その方向に、話が決まった。 「ちょっと」 「佐助も、日ごろはぼやいておるし、これで肩の荷もおりるだろう」 そう言われては 「ん、ま……まぁねぇ」 頷くしかない。 「受けてくれるか、沖」 言われた沖は 「子どもの三年は、大きいからねぇ。どれほど成長なされたのか、楽しみだわ」 相好を崩した。 それを横目で見ながら、佐助は弁丸が承知すまいと思った。けれど、あれほど佐助に懐き、五月蝿いくらいに側に呼び、下らぬものを寄越そうとしてきた弁丸が、あっさりと沖と佐助が変わることを了承したと聞いて (うそ、だろう) 内心愕然としながら 「あ、そう。よかった。これで余計な気を使わなくって、済むよ」 へらりと笑って見せたのだった。 そして、その後すぐに沖が弁丸の側に控えることになり、交代の挨拶をすることもなく佐助は解任となり、こうして誰も居ない草屋敷で一人、転がっている。 何時もならば、この時間は弁丸に呼ばれていた。お八つの共をさせられて、下らぬ遊びにつき合わされ、下らぬ話を聞かされて、佐助が適当な返事をしても怒る様子も無く、嬉しげに腰の辺りにまとわりつき、名を呼んで、身を委ねてくる。全身で甘えてくる彼は日だまりの匂いがして、やわらかな頬は大福のように甘そうで、栗色の瞳が真っ直ぐに自分を映しているのを見るのが、佐助の日課となっていた。 心のどこかで、弁丸は自分が側に居なくなるのを嫌がるだろうと、思っていた。 それなのに ――子どもは、母を求めるものだ。 そういうもんかね、と思う。所帯を持つもの同士が家族の話をしているときに、子どもは父には平気で手を振るが、母には縋りつき離れるのを厭うと言っていたことがあった。それを聞いていた者も同調し、いかに子どもが母を求めるかを語っているのを、聞くともなしに聞いていたことがある。 そっと、佐助は自分の腕を見た。掌を見て、胸に手を置き、数度、叩いてみる。そうして、沖のやわらかな体と乳房、抱きしめられたときの香りを思い出し、あれが母になるための資質だというのであれば、自分はどう逆立ちをしてもなれない事を、確認した。そもそも、母とは大人の女がなるもので、男で子どもな佐助がなれようはずもない。 「母親」 つぶやく。 自分が母を恋しがったという記憶は無い。けれど、沖に抱きしめられて無意識に抵抗をせぬ普段には無い自分には、気が付いている。――もしそれが、そういうことならば。 「かなわねぇよなぁ」 弁丸はきっと、すぐに沖の腕に納まるだろう。自分では、何もかもが足りない。そう思う端から、ため息が漏れた。 瞼を閉じて浮かんだのは、弁丸の無邪気な笑顔と佐助を抱きしめる沖の笑み。それが交わされているであろう事を想像し、喉がつまり胸が痛むのを堪えるため、佐助は背中をうんと丸めて小さくなった。 ◆ 佐助の変わりに、沖という女が現れた。 きょとん、と見慣れぬ女を眺める弁丸に、沖はなつかしげな顔をして両手を広げ 「こんなに、おおきゅうなって」 柔らかな腕と胸の中に、弁丸を包み込んだ。 「な、な……」 目を白黒させる弁丸に 「覚えておりませなんだか。まぁ、致し方のないこと。これよりは、沖が若様の世話役を勤めまするゆえ、よしなに」 膝に抱きかかえて赤子をあやすようにする沖の言葉に、弁丸の背筋が冷えた。 「佐助は――」 「佐助に換わって、この沖めがさまざまにお世話を致します」 あたたかく甘く、どこか心を落ち着かせる香りを持つ女の腕の中で、弁丸の心はざわついた。 「佐助は、来ぬのか」 「あれは戦忍ゆえ、これよりはそちらに精を出しまする」 こともなげに告げられ 「そうか」 しゅん、と目を落した弁丸に目を細め 「しばらくは、さみしゅう御座いましょうが、佐助が若様の忍であるのには、お変わりなきこと。気落ちめされますな」 問うように、弁丸の目が持ち上がる。 「若様が元服し、初陣に出る折には、必ず佐助が側におりましょう」 それはいつだ、と口にしそうになるのを堪え、頷くと髪を優しく撫でられた。撫でられながら、思う。佐助は、いつだって呼べば側に来てくれた。面倒くさそうな顔をしていても、話しかければ返事をくれたし、何かを与えようとすれば受け取ってくれた。まとわりついても、嫌そうな顔はしても受け止めてくれていた。なんだかんだ言いながら、佐助は自分を好いてくれているのだと、弁丸は思っていた。――けれど 「そうか」 ぽつりと、呟く。本当は、佐助は迷惑だったのだ。弁丸とて無知では無い。主従の間柄では、嫌々ながらも従うしかないこともあると知っている。ましてや、佐助は忍だ。そも、忍が主と同じ床の上に立つこと自体が有り得ぬことと、聞いたことがある。卑しき身分であるから、と。甲斐の忍は他国の忍とは扱いが格段に違う、と。だからこそ、来客があるときは、常ならば側に控える忍が座を共にすることは、絶対にしない、と。そう教えられたことがある。いずれ人を率いなければいけない立場になる弁丸に、そこのところは覚えておくように、と折にふれて佐助も口にしていた。――俺様が、こうやって弁丸様のお八つの相手をするのとか、他国なら、卒倒モンなんだからね。 呆れたような、あきらめたような顔をして言う佐助に、それでも側に居てくれるのだろうと、言葉にせずに笑みを向けると、少しだけ眉尻を下げて口の端を上げ、仕方ないなぁと頭を撫でてくれる手を思い起こし、きゅ、と痛んだ胸を抑えて硬く目を閉じる。そんな弁丸を何と判じたのか、沖は全身でくるむように弁丸を抱きしめた。 その後、沖が辞してから気に食わぬなら沖は下がらせますが、との伺いを立てられた。いやだといえば、佐助が手元に戻るのだろうか。それとも違う者が現れるのだろうか。 少し考え、弁丸は沖で構わぬ、と答えた。 もし、否やと告げて佐助ではない誰かが自分のところへ来たら――。 唇を引き結び、弁丸はこぼれそうになる涙を堪えた。 もし、そうであるなら佐助が本当に自分を迷惑がっていたということではないのか――。 知りたくない、と拳を握り、何時もならば眠る前に佐助を呼ぶのに、彼を呼んではいけないのだと認識した弁丸は、頭から掛布をかぶり、体を丸めて 「さすけぇ」 小さく呟き、湧き上がる寂しさを堪えた。 ◆ コト、と軽い音を立てて、櫛が床に置かれた。きれいに梳かれた長い後ろ髪に触れているのは、かけがえのない彼の忍――猿飛佐助。 「なつかしいな」 呟く真田幸村に 「なつかしいね」 佐助も続いた。 森閑とした宵闇の中、二人の影をねむり燈篭が作り、揺らしている。幸村は肌着で、佐助は平服であった。主の眠る前の世話を、忍の佐助が行っている。これは、どこにも類のない、珍しかな事であった。けれど、二人にとっては夜になれば星が瞬くように、当然のことで 「しかし、あの時は、沖が忍だとは、つゆほども思わなんだぞ」 「そりゃあ、あちこちにもぐりこんで、土地の者のフリして探るのを得意としていたんだから、鈍い旦那に気付かれるようなヘマはしないよ」 「鈍いとはなんだ、鈍いとは」 「鈍いでしょうが」 (天狐仮面が俺様だって、気が付かないんだもんね) そんなところが心配であり、可愛くも思えてしまう自分は相当に甘く、良くないのだろうとは、自覚している。 「旦那」 憮然としてしまった主を呼べば、振り向いて真っ直ぐに見つめてくる。 (ああ――) 幼さの残る幸村の顔に、弁丸と呼ばれていた頃の彼が重なる。丸く大きな瞳に佐助を映し、全身で対話をしようとぶつかってきたその時と、何も変わっていない栗色の瞳に映る自分が、笑っている。 「どうした」 「何が」 「なにやら、楽しそうだな」 「そう?」 「うむ」 「気のせいじゃないの」 「はぐらかすな」 「はぐらかしてないよ」 「なれば、気付いておらぬのだな」 得意げな様相になった幸村に、首をかしげる。すると 「佐助は、俺のことには聡いくせに、自分のこととなると、とんと鈍くなる」 「え」 「佐助は、自分のことには鈍い」 胸を張って言う幸村が 「だから、俺が気付かせてやらねばならぬのだ」 「なにそれ」 子どものような言い草に、声に笑みが乗った。 「佐助は、自分を誤魔化す癖が、ついておるからな」 得意げに鼻を鳴らした主の言葉に、絶句した。 ◆ 忍同士にも、戦がある。表立った戦闘ではないが、これに勝利するとしないのとでは、ずいぶんと戦況が変わってくる。忍を卑しいものとする領主は多いが、軽んじる者は少ない。武士が体面のために行えぬことを、忍はできるのだ。――忍の本分。それは、好むと好まざるとにかかわらず、佐助にとっては適性の仕事で 「ぐぶっ」 「はい、一丁あがり、と」 こそこそと探りを入れながら、道の辺りに小細工をしていた何処かの忍のみぞおちに差した小刀を抜き取り、血を払う。 「見事だな」 「当然」 感心する声に、小憎らしく余裕を見せた。――佐助には、死に逝く者は猿に見えた。人の言葉を操る、猿。それは、人間を殺すという意識を彼から削ぎ、食すための獣を狩るのと大差ない行為で (ま、食べないけどさ) 肩をすくめた。 「あとは、下手な小細工を全部、取り払えば終わり、と」 ばさ、と頭上で羽音が聞こえ、見上げると佐助子飼いのカラスが一羽、何かを咥えて降りてきた。 「ん?」 腕を伸ばし、止まらせて掌を差し出すと、カラスは咥えていたものを落した。 「あらら」 それは、人の一部だったもので 「上に、まだ居たのか」 見上げてから 「ありがとね」 言うと、カラスは満足そうに声を上げて羽ばたいた。 「佐助」 「何?」 「いや」 目をそらされ、心臓でため息を付く。佐助がカラスに好まれていることを、気味悪がっている者がいる。――佐助は闇が濃すぎるのでは無いかと、危ぶんでいる者がいた。彼もきっと、そのうちの一人なのだろう。 (あ〜あ) 面倒くさい、と思う。戦忍に適しているといわれ、弁丸付から離れて工作の任務が増えた。当然、邪魔をする者が現れる。それを排除するのも当たり前のことで、佐助は眉一つ動かさずに、それをやってのけている。 (問題なく仕事をこなしてるってのに) それで不満が出るなどと、思ってもみなかった。 (めんどくさ) こんなことならば、弁丸付のままであったほうが良かったのではないかと思う。思いながら、ふと手を広げ (この手じゃ、もう触れられねぇよなぁ) 自分以外の者の血が――人間の血がこびりついている掌を、見つめた。