峠を越えている最中の伊達政宗の目に、人影が映った。それは彼の右目と称される片倉小十郎も気付いたようで 「政宗様」 「ああ」 短いやり取りの後、後続の兵士達に小十郎が合図を送り、全軍がつり橋の前で止まる。 「こんなところで、出くわすとはなぁ――真田幸村」 楽しさを抑えきれない声音で呼ばれ、つり橋の対岸に居る男――真田幸村は朗々と響く声で答えた。 「これ以上先に、貴殿らを進ませるわけには、いかぬ。退かれよ」 ひょい、と政宗の眉が上がった。 「そういわれて、はいそうですかと応じるバカがどこにいる」 言いながら下馬し、両腕を腰の獲物に伸ばしながらつり橋に向かう。 「政宗様」 「手ぇ出すんじゃねぇぞ、小十郎。向うはどうやら、単騎だ」 なるほど、対岸には幸村の姿以外は見えない。 「木々の間に、紛れているやもしれません」 「HA! そんならそんとき。全員、蹴散らしゃ終いだ――Show Time!」 高らかな声と共に地を蹴る政宗と同時に、背中の二槍を手に幸村も駆ける。 「おぉおおおおおおっ」 つり橋の中ほどで衝突した二人は、互いの剣戟を刃で受けながら、隙を狙う。 「ッ――いいねいいねぇ、アンタやっぱ最高だ」 「政宗殿こそっ――また腕を上げられましたな」 挑むように声を弾ませ、距離をとる。互いの間合いを測りながら、周囲に意識を向ける。つり橋の上では得物が長い幸村には分が悪い。しかし、彼にはそれを補うに足る体術がある。政宗も、それは重々承知しており、安易に踏み込むことは出来ない。 「おい、真田幸村――いつもくっついてる、あの猿はどうした」 「佐助ならば、別の任務にて西国に向こうておりまする」 「で、アンタ一人でこの俺を抑えに来たってぇ訳か」 「政宗殿ならば、拙者一人お相手願うことかなわば、無慈悲な進軍は致されぬと存じた次第なれば」 ひゅう、と軽く政宗が口笛を吹いた。 「ずいぶんと、信用されてんじゃねぇか――で、もし俺が勝っちまったら、どうするつもりだ」 「この身が滅びようと、阻止いたしまする」 「殺すにゃ惜しい相手だが――天下の前には仕方無ぇ…………が、もし――そうだな。アンタほどの奴なら、好条件で召し抱えたいってぇ所もあるだろう。撤退する代わりにアンタを求められたら、どうする」 「この命、武田が未来に尽くす所存! なれど、負けた場合は潔く、文字通りこの身を賭して見せまする」 ぎ、と政宗の眉間に不機嫌な力が篭った。 「上等だァ――なら、もし俺が勝ったら、アンタを賭けの景品として貰ってやる」 「簡単には、渡せませぬ」 みし、と互いの筋肉が軋むほどに力が篭る。 「OK,Let’s get serious!」 「みぃなぁぎぃるあぁあああああ!」 闘気が待機を奮わせる。腰を落とし、力を溜め、駆け出した二人の刃が会合した瞬間、橋が落ちた。 「政宗様!」 「筆頭!」 橋の落ちる轟音に、伊達軍の声がかき消される。もうもうと立ち込める土ぼこりの合間を縫って見える雷や炎、耳に届く叫びが二人の無事を知らせてくる。 やがて 「ぅおぉおおおおおおおおおお」 「でぇりゃあぁあああああああ」 ひときわ大きな声が上がり、その後――崖上に居る者たちに届く音は、消えた。 崖の下、肩で荒く息を吐く幸村は、肩膝を付いていた。その首に、白刃が当たっている。 「勝負、あったな」 「――無念」 低く唸る姿に、目を細める。 「勝ったら、アンタを好きにして良いんだったな」 「二言は、御座らぬ」 「…………誰に対しても、同じことが言えるのか」 「は?」 唸るような政宗の声音に、悔しさに伏せていた顔を上げた。 「もしこの相手が、徳川や石田――他の軍勢だったとしても、同じことを言っていたのか」 言わんとしていることが理解できず、幸村はただ苛立つ政宗の顔を見上げる。 「もういい。二言は、無いんだったな」 「無論――この身、政宗殿のお好きに使われよ」 胸に掌をあて、真っ直ぐに見上げる幸村の顔面に拳が叩きつけられた。 「ぐぉっ」 奥歯を噛み締め激情を押さえ込む政宗が、地に伏して口から漏れた血を拭う幸村を眺めながら感情を消し、口の端を持ち上げた。 「なら――アンタは今から……俺の、犬だ。従順な――な」 「い……ぬ」 呆然と繰り返す幸村と政宗の下に、人馬が崖のわずかな足場を頼りに駆け下り、集まった。 幸村を得た政宗は進軍をやめ、奥州へと戻った。真田幸村という稀代の武将を迎えることが出来たことで――いや、そのような事がなくとも、伊達軍から文句の出ようはずもなく、次の機会までは各々の生活に戻ることになった。 誰もが、迎えた幸村は取り立てられ、奥州の武将として立ち働くか武田軍との和平の証となるかのどちらかだと信じ、疑うこともせず政宗からの説明が無いままに納得をした。 「まったく……まぁ、いい。アンタが俺の犬になったなんざ、言いふらすわけにもいかねぇからな。安心しろ。武田に使いはやってある。アンタは俺を止めに入り、見事討死したとな」 その為に、彼の戦装束と髪のひと房を包み、使いに持たせてある。 「真田幸村は、死んだ」 すぐに、小十郎に告げて皆にその旨を心しておくように――決して連れ帰ったことを悟られぬように釘を刺せと伝えてある。 「だから、アンタは安心して犬で居りゃあいい」 脇息にもたれ、片膝を立てて酒で唇を湿らせる。その政宗の向いに、着流し姿の真田幸村が座っていた。 「どうした。尻の居心地が悪そうだな」 「どうしたもこうしたも、犬で居ろと申されても――いかようにすれば良いのか、わかりませぬ」 心底当惑している相手に、政宗の目の奥が鈍く光った。 「そう――だな。月見酒も飽きた。……肌見酒とでも、しゃれ込もうか」 「――は?」 杯を掲げ、言う。 「脱げ」 「え」 「脱げよ――犬に、着物は必要無ぇ」 みるみるうちに、幸村の目が大きく見開かれる。 「二言は、無いんだろう」 夜気に滲む声に、幸村の喉が鳴った。無言で促され、唇を引き結び、帯に手をかける。 しゅる 帯が解け、引かれる音がする。 ぱさ 着物が床に落ちた。 「まだ、不要なものが着いているだろう」 「っ……」 月光が、幸村と政宗の間に見た目以上の隔たりを作る。急かすことも、促すこともせず、政宗はゆるゆると杯を傾ける。――惑う幸村を楽しんでいるかのように。 「ぅ――」 そろそろと、幸村の手が下帯に伸びる。政宗の気配が好色そうにゆがみ、それに動きかけた手が止まる。 「っ…………は、ぁ」 緊張に震える息を吐き出す幸村の太ももに絡みながら、下帯が落ちた。 「♪〜 見られて、興奮してやがったのか」 「っ! ち、違いまする」 否定をしても、立ち上がりかけた牡が肯定を示す。拳を握り、顔を逸らして羞恥に耐える幸村の耳朶に、どろりとした艶を含んだ声が侵入した。 「俺に抱かれたときのことでも、思い出したか」 反射的に顔を向けた幸村の体中に、朱が指す。 「何度も、アンタは俺に晒してんだ。いまさら、だろう」 唇を戦慄かせ、隠すこともためらわれ、ただ立ち尽くすしかない幸村に、勝ち誇るでもなく、甘やかすでもなく、ただ、告げる。 「這えよ――――犬、だろう」 がくん、と幸村の膝が落ちた。手を着き、うなだれた。 「アンタの覚悟は、その程度か」 左右に髪がゆれ、持ち上がる。 「某は――政宗殿の……犬、にござる」 「従順な、が抜けてる」 奥歯を噛み締め、唇を噛み、震える声で言いなおした。 「某は、政宗殿の従順な犬に、ござる」 「OK、イイコだ。そのまま、這ったまま来い」 そろり、と幸村が進むたび、見えない距離が深くなる。政宗に届く場所で彼を見上げると顔が近づいた。 「口、開けろ」 天を仰ぎ、口を開く。そこに、酒が注がれた。 「飲むなよ」 口に受けた酒が、飲み下されること無く口から溢れ、顎を伝い、床に落ちる。 「いいぜ、飲めよ――床に、落ちたやつもな」 「っ……」 驚愕する幸村が、政宗を凝視し、やがてあきらめたように床に唇を寄せた。舌が床に着く前に、顎を捉えられる。 「んっ、ふ――」 無理矢理引き寄せられ、唇を乱暴に重ねられた。 「ぁ、んんっ、んっ、ん――」 呼吸がしづらく、鼻から息が漏れる。それすらも奪い去るように、政宗は幸村の息を喰らう。 「んふぅ、んっ、んんっ、はっ、はぁ、はぁ」 やっと開放されたときには、互いに呼吸が乱れていた。 「ま、さむね――どの」 荒い息のまま名を呼ぶと、身を切るような殺気を向けられた。 「ま――」 呼びかけられることを拒絶するように、立ち上がり背を向ける政宗が告げる。 「これから、俺への挨拶は、俺の犬だって――言葉にしろ」 「政宗殿ッ」 追いすがろうとする幸村から逃れるように、政宗は次の間へ移る。閉じられた襖の音が、二人の間を永久に閉ざしたように――響いた。 酷く苛立つ気持ちを振り払うように、乱暴に足早に自室へ戻る。大人しく着物を脱いだ幸村の――指示したとおり床に舌を伸ばした幸村の姿が、彼の言葉と共に脳裏に響いた。 ――負けた場合は潔く、文字通りこの身を賭して見せまする。 身を賭して、あのような行動をすると言うのか。 他の誰に言われても、従うのか。 相手が、この俺で無くとも――――。 「ッ!」 壁に拳を打ち付ける。何故、あのような事を口走ったのだろうか。何故、それに従うのか。――睦みあうときでさえ恥じらい、高みに連れて行かなければ曝け出すことを厭うほどであるのに。 「上等じゃねぇか」 あの男は、自分を賭けて負けた。二言は無いという。――犬になれと言えば、犬だと応えた。ならば、心身ともに従順な犬に仕立て上げてやればいい。 「後悔するなよ?」 唇が、いびつに歪む――――。 政宗が消えた襖をしばらく眺め、のろのろと着衣し、窓の外に顔を向ける。政宗が何を望んでいるのか――何をしたいのかがわからない。わからないが、それに全て応えてみようと――幸村はそう、覚悟を決めていた。 武田信玄と上杉謙信の間に流れるもの。 徳川家康の言う絆と――石田三成との関係。 大きな次代の渦に飲み込まれようとしている時代。 今は、嵐の前のつかの間の平穏であるような気が――無意識の嗅覚に感ぜられた折に、忍隊の者から伊達軍がせまっているという報告を聞いた。 幾度目かの川中島の決戦。それに臨む敬愛する信玄の身に凝っているものに――おそらく上杉謙信の身にも宿っているものに憧憬と渇望が湧き、幸村を絡め取った。そんな折に降って来た伊達政宗の進軍。すぐさま信玄の下へ参じた幸村は、単騎出陣を願い出た。 「政宗殿の立場――見識、それら全てと向き合いとうございまする」 でなければ、師と軍神のような高みへ到達できないのではないかと、感じている。 「勝手なことを申しておることは、重々承知してございますれば、どうか――ッ」 深く頭を下げた幸村の髪をくしゃりと撫でて、心残りの無いよう存分に向き合ってこい、と無類の温かさに包まれた心地に送り出された。 そして今、自分は此処に居る。 自分の髪と装束が武田に送られたと言われたが、信玄なら察するだろう。幸村が、まだ生きているという事を。 「政宗殿――」 去った相手のすわっていた場所に、手を伸ばす。かすかに、温もりが残っていた。 何度も肌を重ねた。刃を重ねた回数ほどに――。けれどそれは全て、受動的な行動であった。厭うているわけではない。彼と肌を重ねることは――嫌いではない。けれど、自ら望むことも、溺れることも、さらけ出すことも、はしたなく思えて流される態をよそおってきた。そして政宗は、そんな幸村に気付きながらも甘受してくれてきたように思う。 思えばそれが――逃げ道を作っているような状態が、対等では無いということになりはしないだろうかと感じていた。感じていながらも、進めずに居た。そこに、驚くほどの成長を遂げた家康が現れた。真っ直ぐに人と人との繋がりを説いていた。――ひどく自分が矮小に思え、一国を預かる者と一介の武将である自分との差を見せ付けられた気がし、自分だけが置き去りにされているのではないかとさえ感じた。 政宗は、何を望んでいるのか。 ふと、それが気になった。思えば、肌を重ねている間は全て、幸村の望むように――多少の強引さや駆け引きがあったとしても――してくれていたのではないか、と振り向きながら考えた。 自分と――彼との決定的な差。 それを埋めたくて、彼が何を見ているのかを知りたくて、それを知る機会は今をおいてほかに無いのではないかと心の底から突き動かそうとする衝動が抑えきれず、魂が叫ぶままに峠を駆け、政宗の前に姿を現した。無論、負けるつもりで居たわけではない。勝てば、正々堂々と靄のような想いをぶつけるつもりで居た。けれど、負けた。ならば、政宗の望むように何もかもを受け入れようと腹を括った。そして、言われた言葉が――――。 「犬、か……」 両の掌を眺める。 ――これから、俺への挨拶は、俺の犬だって――言葉にしろ。 あの時の政宗は泣いているように思えて、幸村は拳を強く――――握り締めた。 幸村の住居は、中庭を割るように伸びた渡殿の先にある離れとなった。真田幸村が居る、ということは伏せなければならないので、犬殿と言う通称をつけられた。 「虎の若子ってぇぐれぇなんだから、虎とか猫でもよかったんじゃねぇのか」 「筆頭がそう仰ったんだから、考えがあってのことなんじゃないか」 「虎とか言っていたら、怪しむ奴がいるから、あえての犬なのかもな」 「おっ、頭いいな左馬」 手持ち無沙汰なので、ふらりと散歩に出かけた先で「真田の兄さん」と呼び止められ、立ち止まった幸村を囲んで今の会話になった。楽しそうに会話する四人を、なんとも言えずにただ笑って見つめる。――まさか、政宗に犬になれと言われたからなどと言えるはずもない。 「で、さな――じゃなかった。犬殿は、これからドコに行くんだ」 「いや――特にすることも無いので、散歩に出ようかと」 「なら、俺達が案内してやるよ。右も左もわからねぇなら、散歩のしようも無いだろう」 「良直、いいのか勝手に」 「そうだよ。さな――犬殿がドコまでうろうろしていいのか、筆頭が決めているかもしれないだろ」 言われて、気付く。勝手に部屋から出てきてしまったが、それすらも良いのかどうか聞いていなかった。 「そういえば某、外出をしても良いのかどうかさえ、聞いておらぬ」 「えぇ。じゃあ、勝手に出てきちまったのかよ」 「しゃあねぇなあ。今頃、筆頭は奥の書斎だろうから、許可でも貰いに行くか」 「じっとしていても、退屈だろ」 「ぬう。左馬助殿、良直殿、孫兵衛殿、文七郎殿、かたじけのうござる」 「いいってことよ。これからは、仲間なんだろ」 「なか、ま……」 「そうそう。変な気遣いも遠慮もいらねぇって、な」 背中を叩かれ、目を瞬かせてから微笑む。連れ立って歩く四人の背中に暖かなものを見るまなざしを向けて、幸村は彼らに着いていった。 「筆頭」 「ひっとーぉ」 庭から声をかけると、しばらくして障子が開いた。 「おう、どうし――幸村」 「真田の兄さ――じゃなかった。犬殿が、退屈そうにうろついてたんで、案内してもいいのかどうか筆頭に聞いてみようって」 「勝手にうろつき、申し訳御座らぬ」 頭だけを下げる幸村と、いつもどおりの気安さを持った四人の姿を見比べて、ゆっくりと腕を組む。 「兵法やらなんやら、教えてやんなきゃいけねぇことが沢山あるんだがな。昨日の今日じゃ疲れているだろうと思って声をかけなかったが――退屈してんのなら、俺の政務に付き合えよ。武田のオッサンが、アンタにどんなことを教えてきたのかも、知りてぇ」 政宗の返答に顔を見合わせた四人は、一斉に幸村に顔を向けた。 「だってよ。どうする、えぇっと、犬殿」 「某は――」 少し迷いを見せた幸村が、針のような殺気に気付いた。 「――政宗殿に、御教授願いまする」 「そっか。じゃ、俺らは釣りでもしに行くか」 「またな、さ――犬殿」 「筆頭、失礼しやした」 「おう、気をつけていけよ」 四人の姿が角を曲がり見えなくなるまで見送った幸村の後頭部に、殺気が刺さる。とっさに臨戦態勢をとった彼に、ニヤついた笑みが向けられた。 「来いよ」 低く落ちた声を拾い、警戒を解くもいぶかしみつつ縁側に近づく。 「アンタは、俺の、何だ」 ゆっくりと、噛み砕くように言われた瞬間、喉の渇きを覚えた。 「言ってみろ。昨日、教えただろう」 口を開き、ざらつく喉から声を出す。 「某は、政宗殿の犬にござる」 「どんな、犬だ」 「――従順な、犬に……ござる」 「Well done 幸村」 満足そうに目を細めた政宗からは、殺気が消えていた。一体、何故怒っていたのだろうか。そう思いながらも何事かを発しそうな気配の政宗が次の言葉を言うのを待った。 「何処に、行く気だった」 「何処にも――ただ、部屋でじっとしておるのは性に合いませぬゆえ、散歩でもと。勝手をし、申し訳ござらぬ」 ふぅむと考える素振りの政宗が、品定めでもしているような目を幸村に向ける。居心地の悪い視線に目を泳がせると背を向けられた。 「政宗殿――?」 「屋敷の中なら、好きにうろついていい。が、なるべく、俺の側に居ろ」 しばしの間をあけてから、わかり申したと告げた幸村は庭から上がり、文机の前に座した政宗の横に座った。 「なんだ」 「側に居ろ、と申されましたゆえ」 「Ah」 納得し、書類に目を通す。じっと姿勢正しく正座をしたままの幸村は無言で政務を行う政宗の姿を見つめていた。 「――そんなに、じっと見られていると気が散るんだがな」 「はっ、も、申し訳ござらぬ」 慌てて顔ごと背けた幸村の姿に込み上げてきた笑いが、政宗の方を揺らす。 「ははっ――OK、わかった。俺がこれを片付けるまで、そこの庭で鍛錬でも何でもしてな。ただし、物は壊すんじゃねぇぞ」 「なれど、先ほど政宗殿は政務につきあえ、と」 「付き合えるのか?」 「これでも、隊を預かる者なれば――」 「なるほど、そうだったな。アンタ見てると、そういうことを忘れちまう」 「なっ――どういう意味にござる」 「そのまんま、言葉どおりだ。――なら、さっさと片付けちまうぜ。仕事は山積みだ」 そう言って書物を手に取った政宗の横で、幸村は墨を摺ったり書<物の内容にひとりごちる政宗の言葉に相槌を打ったりすることしか、出来なかった。 政務の後の軍議は、流石に参加をさせるわけにはいかないと小十郎にも諭されて、与えられた部屋に戻る。鳥の声すらも聞こえない離れで、ただ座しているだけというものは――この場所に慣れていない所為もあり、ひどく心もとない。軍議が終われば共に食事をと言われ、早くその刻限にならないかと願っている自分に気付き、ふっと笑みが浮かんだ。 まるで、飼い主の帰りを待つ犬のようではないか。 政宗が、自分に犬になれと望んだ。ならば、そうなろうと幸村は決めた。何故、そのようなことを言われたのかはわからないが、共にある間に真意が見えてくるだろうと思っている。――政宗の望むものが、理解できると。 「政宗殿」 生れ落ちた瞬間から、背負うものの重みが違う彼の見えているものが、抱えているものが知りたいと、そう、願っている――。 空が茜に染まる頃、軍議を終え、幸村の元へ足を向けた政宗は部屋の隅で丸くなって眠っている姿に目を丸くし、ゆっくりとそれを柔らかく細めた。遊び疲れた子どものような寝顔にかかる髪を、そっと撫でる。 「んっ――」 わずかに動いた彼の姿にゆるんだ気配が、次の瞬間、硬化した。 「さ、すけ」 頭では理解をしている。彼の優秀な忍は、政宗にとっての小十郎のような存在なのだろう。少々甘やかしすぎの気があるような気もするが、それは彼らの関係性とそれぞれの性質からなるもので、向うからすればこちらも同等に思えているのかもしれない。そう、頭では理解をしているが、心が納得をするかということは別の話で――――。 ひやりとした空気をまとった政宗は、彼の上に自分が羽織ってきた着物をかけ、無言で辞した。 それからとっぷりと日は暮れて濃紺の闇に月光が差しはじめたころ、幸村は目を覚ました。 「ん……」 もそり、と寝返りを打ち、自分の身にかかっている着物に気付き 「佐助――?」 寝ぼけた頭でつぶやいてから、見慣れぬ室内に自分の居場所を思い出す。――ということは、この着物は政宗のものということか。 「しまった――」 共に夕餉をと言っていたのに、外は宵闇に包まれている。どうにかせねばと立ち上がり、慌てて渡殿を通って母屋へ入った。うろついている間に見つけた者に政宗の部屋を教えてもらい、向かう。もう眠ってしまっているだろうかと思いながら、おそるおそる声をかけてみた。 「政宗殿」 中で、人の動く気配があった。すらりと襖が開かれる。 「やっと、起きたか」 「申し訳、ござらぬ」 「かまわねぇ――が、悪いと思ってんなら、存分に付き合え。体力は万全だろう」 体をずらし、入るように促されるまま足を踏み入れる。 「腹は、減ってないか」 「少々」 「なら、待ってな。適当に見繕ってやる。――ああ、そうか。勝手にうろつかねぇように、しておかないとな」 言いながら、幸村の帯に手をかけた政宗はそれを解き、ゆるく幸村の首に端を巻きつけ括り、片端は手近な小刀で床に縫い付けた。 「大人しく、していろよ」 政宗が去った後、首に巻かれた帯を掴み、床に縫いとめられた部分を眺め、座り込む。感情がありすぎてわからないのか、それとも何も感じていないのか――どちらにせよ、わきあがった冷ややかで遠いものを持て余しながら、政宗が帰ってくるのを待つ。ほどなくして戻ってきた彼の手には、粥とわずかな菜があった。 「こんなもんしか残っていなかったが、我慢しろよ」 「かたじけのうござる」 受け取り、食す。その横で、政宗は用意をしてきた酒を傾け始めた。ゆるゆると唇を湿らせる彼が杯の中を飲干す前に粥を食べ終わり、手を合わせた幸村は問いたそうな顔で視線をあちこちに巡らせた。 「どうした」 「いえ――何も」 「無い、ってぇ顔じゃねぇな」 「――この、帯は」 「首輪代わりだ。どっかにふらっと行かれちゃあ、かなわねぇからな」 「行きませぬ」 「そういや、大人しく待っていて眠っちまったんだったか」 反論のしようもなく、わずかに口を尖らせて押し黙る。クックと喉の奥を鳴らす政宗が、人差し指で幸村を招いた。呼ばれるままに近づいた幸村の肩に手を置き、襟首を掴む。 「犬に、着物は必要無ぇ」 言わんとしていることを理解し、着物を落とす。あごで示され、下帯も解いた。 「俺だけの前でなら、首輪代わりのもの以外、身に着けるな」 手を伸ばした政宗が、髪を結わえている紐も解く。 「こいつも、必要無ぇ――が」 何を思ったのか、それを幸村の牡の括れに括り付けた。 「っ――政宗殿、何を」 「首輪、だ」 くん、と紐を引くと何の反応も示していない牡が動く。 「足を広げて、座れ」 出来るだろう――と目が促してくる。そこに秘められた粘り気のある艶めいたものに浮かされ、幸村は大人しく従った。 「イイコだ」 低く、囁かれる。 「んっ」 先端を、褒めるように撫でられた。わずかに牡が持ち上がる。 「幸村――アンタは、俺の、何だ」 「某は、政宗殿の……従順な犬に、ござる」 笑みを深くし、指先を幸村の牡に触れるか触れないかの位置でゆらめかせる。次いで 「ひっ」 びくん、と幸村が跳ねた。 「あっ、ぁ、ああ――」 帯電させた政宗の指が、触れることなく幸村の表面をなぞる。 「あっ――んっ、んぅ」 思わず膝を閉じた幸村を咎めるように、膝頭を叩く。叱られた子どものように下唇を噛んで見上げると、ゆるくかぶりを振られた。 「閉じないように、胡坐を掻いて足首を持て」 羞恥に朱を注した目を逸らし、言われたとおりに足を開くと、ひときわ大きな電流が走った。 「ひっ――いぃ」 大きく仰け反った幸村の中心で、牡が首を持ち上げる。強い刺激に先走りが溢れ、それがより電流を肌に絡めた。 「はぁ、あっ、ああ、政宗っ、どのぉ」 全身を小刻みに震わせ、歯の根の合わない奥歯を必死に噛み締めて堪える姿に、どす黒い感情が渦巻いていく。つい、と指先を下ろし根元に先ほどよりも大きな電流を流した。 「ひぃあぁあああっ、ぁ、ああっ、ひっ、ひぅ」 思わず両手で股間を押さえる幸村が体を丸めて床に転がる。向けられた尻に、政宗の掌が触れた。 「ふっ、う――ううっ」 ぶるぶると震える尻を撫で、割る。そっと顔を近づけて、すぼんだ箇所に舌を伸ばした。 「ひっ、ぁ、政宗殿っ」 濡れた音をさせて、政宗が菊花を解す。唾液を染ませ、指を挿しこみ自分が入っても壊れないように広げていく。 「はっ、ぁ、あ、ぁあ――」 とろりと、幸村の目が快楽に支配され始めた。弛緩しゆだね始めた体に、竜の爪が食い込む。 「ひぎっ、ぁ、あぁああうぁ」 挿入した指を帯電させた。 「ひはぁあああっ、ひっ、ひぃっ」 髪を振り乱し、手も足も床を掻く幸村の牡から精液が小刻みに噴出す。すぐさま指を抜き、幸村が荒い息を整えるのを待った。 「はぁ――はっ、は、はぁ、あ、はぁ……」 「こっち向けよ、幸村」 「う――」 緩慢な動作で、這い蹲りながら体の向きを変える。胡坐を掻いた政宗の股間が、膨らんでいるのが見えた。 「舐めろ」 前をくつろげ、下帯を解く。反り返った政宗の牡が幸村の目に映る。 「ぁ……」 「犬――なんだろう。それとも、止めておくか」 「二言はござらぬと、申した」 硬い声が返ってきたことに苛立ちを滲ませた政宗に気付かず、幸村の手が伸びた。 「んぅ、む――」 ぬめりに牡が包まれ、茶色の髪が腰の辺りで揺れている。 ――なんなんだ。 自分でしろと言ったくせに、苛立ちだけが胸に湧いた。 ――なんだってんだ。 浮かんだ言葉は、自分にも相手にも向けられていた。 「っ! やめろ」 肩を押し上げ、力任せに突き飛ばす。 「なっ」 驚く幸村に背を向け、立ち上がる。 「部屋に、戻れ」 「政宗殿」 「もう、休む」 「政宗殿!」 追いかける声に振り向きもせず、政宗は次の間へ移った。 幸村の姿を襖で消して、両手で拳を作り顔に当てる。脳裏に、口淫を行う幸村の姿があった。 耳の奥に、硬い――意固地になっているとも取れる声が響く。 ――二言はござらぬと、申した。 腹を決めたようにも聞こえたそれに、心臓をかきむしりたくなるほどの苛立ちが起こる。 ――負けた場合は潔く、文字通りこの身を賭して見せまする。 自分を賭け、負けた。 潔く勝者の物品となることを、幸村は納得して奥州に居る。 そう、自分は勝利し、幸村を得た。 犬になれと言ったのは、ほかならぬ自分であるのに言い知れぬ焦燥が全身を絡め取る。 理由は、わかっている。 自分以外の相手にも、同じことを告げたのか――その答えを聞く前に、自ら会話を切った。女々しくも、日の光の下で躍動する獣が自分だけに――自分だからこそ言ったのだと、そうであって欲しいと望んだ瞬間、奢りと絶望が去来した。 人一倍、初心である彼が身をゆだね、淫らな自分を晒し、睦みあった相手であるという奢りのような自負が薄氷のように思え、自分の中にある弱さに悔しさが、誰に対してなのかわからない嫉妬が滲む。 脳裏に、迷うことなく政宗の牡を口に含んだ姿が再び蘇る。今まで、あんなふうに彼がしたことは無かった。自らの牡を咥えられることも羞恥するどころか、互いの肌をまじまじと見ることさえも厭う彼が、政宗の言うままに手を伸ばし、口に含んだ。 ――某は、政宗殿の……従順な犬に、ござる 二言は無いと自らに枷を嵌めた彼が、言葉どおりに従っているのだとしたら、それは――自分以外であっても構わないのではないかという声が、何処からか流れてくる。そんなことは無いと思いたがっている自分も鬱陶しく、一瞬先すらも進む道が見えない。何処に向かって行けばいいのか――このままでは、何処に向かってしまうのか。 狂ってしまえばいい、と夜気に囁かれて顔を上げる。 そうだ。 狂ってしまえばいい。 狂わせてしまえばいい。 本当に、従順な犬にしてしまえばいい。 覚悟をしておけと相手に告げた自分の覚悟が足りなかったのだと、気付く。 戦国の世――いつ命を落とすかわからない時代。この次の瞬間、首が床に落ちていることも在り得る世界。その中で、欲してやまない相手を側に置いておく為の手段として。 「そうだ――共に狂っちまおうぜ、真田幸村」 青い炎のように揺らめいた感情に、政宗は身を投じた。 一人残され、幸村は呆然としていた。 これで、二度目――。 犬になれと命じられた昨夜も、こうして一人で残された。 何が、いけなかったのだろう。 幸村にはそれがわからない。従順な犬になれと言ったのは、政宗だ。そしてそれを自分は受け入れた。どのようなことにも耐え、自らをさらけ出し、寄り添う覚悟を決めている。そうすれば、政宗も奥底に抱えている、心の几帳の裏にもいけるのでは無いかと思って。けれど―― 「政宗殿」 呟き、そっと首に巻かれた帯に手を伸ばす。このようなことをしなくとも、自分は逃げようなどと思いもしないと、告げたかった。けれど、その相手は今この場には居ない。 「政宗殿」 もう一度、呟く。からかうような目をして始めた行為であるのに、最後は嫌悪に変わっていた。 ――某が、拙かったからか。 政宗に咥えられることも恥ずかしく、毎度の行為では拒んできていたのでどのようにすればいいのか見当もつかないが、とにかく口に含み、自慰をするように手で擦れば良いのではないかと行ってみたが、気に食わなかったらしい。そろそろ知っておいたほうがいいと年嵩の者たちが与えようとしてきた春画や春本の類を、わずかなりと見て知識をつけておけば良かったのだろうか。――政宗ならば、知識も経験もあってもおかしくは無い。 ちり、と胸の奥が焦げる。 奥州を統べる政宗には、そういう相手が一人や二人居ることは自然なことだろう。何よりも、女のほうが放っておかないのではないかと、鈍い幸村であっても思いつく。 そういう相手と、自分は比べられたのだろうか。 先ほど焦げたあたりが、軋む。 「政宗殿」 犬になれ、と告げたときの顔を思い出す。初めはどこか楽しそうだった顔が、段々と苛立ちに満ちたものになっていった。それはひとえに、幸村の性に対する未熟が原因なのではないだろうか。 「政宗殿」 つぶやく。 ならば、彼が満足するよう、望むように修練を極めよう。全てを晒し、受け止め、見えているものを共有できるほどに――。その為ならば、破廉恥と倦厭してきた事にも励もうではないか、と唇を引き結ぶ。 「二言は、ござらぬ――政宗殿」 赤い炎が、幸村の中に沸き起こった。