あるかなしかの風を感じながら、陰陽師毛利元就は弓張り月を肴に、ほろほろと酒で唇を濡らしていた。 おだやかな夜である。 みっしりとした夏の命を包み込んだ闇が、重く大気に織り込まれていた。 静かに杯を傾けていた元就の眉が、ふいに潜められた。目が、庭の夏草へ向けられる。しばらくすると、草の間に白い靄が湧き上がり、体躯の良い男の姿が現れた。「いよぉ、毛利ぃ」 唇をゆがめ、一歩踏み出した男は、およそ屋敷に似つかわしくない風体で「何の用だ」「ごあいさつだなぁ」 そう言って上げた男の手には、鮎があった。「おっ」 ふわり、と鮎が持ち上がり、男が目を細めて「いい具合に、焙ってくれよ」 手を離すと、鮎はひとりでに庭を横切り、夜気の中を泳いでいく。「いい夜だな」 どかりと元就の横に坐した男は、人では無い。 鬼であった。 陰陽師の傍にいる鬼は、式神として使役されるものばかりと言われているが、この鬼、長曾我部元親は式神では無かった。 本人……いや、本鬼は「元就の友」と称している。元就は「都合の良い手駒」と口にするが、それを照れ隠しだと、元親は判じていた。 元親のむきだしの上体は、鎧のような筋肉に覆われている。髪は白く、左目を紫の布で覆っていた。 一見して常ならぬ人だと、わかる。だからこうして、人目をはばからなくとも良い時間帯に、友と思っている元就を訪ねてやってくる。「いただくぜ」 元就の返事も待たず、どこからか取り出した白磁の杯を手に、勝手に銚子を傾けて注ぎ、口をつけた。「旨いな」 目を細めた元親が「こりゃあ、奥州の酒か」 元就に問うた。 以前、雨乞いを頼まれた折、二人は奥州の竜神、伊達政宗の元へ向かい、招いたことがある。その後より、交流と言えなくもないやりとりを、行っていた。「あの後、甲斐の真田幸村と政宗は、ずいぶんとおもしれぇ仲になってるみてぇだな」 こちらから奥州へ向かうのは、元親の碇槍で海を渡れば良かった。けれど竜神をこちらへ招くのに、海を通れば雨水に潮が混じる。それを避けるために陸路を通らねばならなかったのだが、甲斐には竜神の苦手とする大ムカデを従えた虎、武田信玄が居た。 竜神を封じる折に使われる大ムカデは、海の鬼である元親には何の効力も無い。したがって、通れぬ場合は元親が力を尽くす予定であったのが、虎に仕えていた真田幸村という男と政宗が刃を交えることとなり、結果、二人は妙に気が合い、時折技を磨き合う好敵手と言える間柄となった。そして、人である元就よりも人好きの、あるいは妖好きのする質の元親は、どちらとも親しくなり、時折遊びに行っているらしい。「おっと」 香ばしい香りが漂い、先ほど夜気を泳いで行った鮎が、こんがりと焼けて戻ってきた。 元就は、人を嫌う。 いや、嫌ってはいないのかもしれない。相談事を持ちかけてこられると、それに応えるくらいには、嫌ってはいない。だが、屋敷で使うことは、していなかった。 鮎は、元就が屋敷で使っている式神が元親の手から台所へ運び、焙り、こうして運んできたのだ。 その、世話をした者の姿は、見えない。 見えないが、居た。 ふわりと鮎を乗せた皿を置き、見えない式神は何処かへ散じた。 日中、客を迎える時は、姿を人に見せられる者を使う。けれど、今はそのような気遣いをする必要は、無かった。「ん、いい具合だ」 頭から鮎をかじり、満足そうに頷いた元親が「食えよ」 元就に勧める。箸で身を摘まみ口に運んだ彼の頬が、思わずゆるんだのを見て「旨ぇだろう」 機嫌よく、元親が言った。「悪くは無い」「可愛げの無ぇ言い方すんなよ」 抑揚のない声に、あきれた調子で言ってみるが、そういうやりとりが元親は面白いらしい。 式神でも無い彼が、元就のもとを訪ねてくるのは、彼の事を気に入っているからであった。 人は、元就を「冴え凍る君」などと呼び、感情の起伏に乏しく見目涼やか、というよりは冷たい印象すら与える彼を、遠巻きに扱っている。彼の持つ陰陽の力が、他の陰陽師や法師らよりも抜きん出ていることが、そうさせているのかもしれない。 得体のしれぬもの、見えぬものに、人は畏怖や畏敬の目を向ける。 そんな彼だからこそ、鬼である元親にとっては、人であっても気安く感じているのかもしれなかった。「どこで、狩ってきた」 鮎の味がよほどに気に入ったらしい。たいていは元親が、ほろりほろりとつまらぬ話をこぼし、元就は何も言わずに杯を傾け、頃合いとなれば座を立つ。元就が、元親に何かを頼む――元就からすれば、命じている――以外で自ら口を開くのは、稀であった。「貰いモンだよ。河童が困っていたのを、助けてやたら礼に届けてくれたんだ」 この鬼は、あちらこちらに出かけては、さまざまなことをしてくるらしい。西海の鬼といえば、妖たちの間では知られた名であるらしく、彼の容姿を見れば、名乗られずとも察し、恩義を受けたものが律儀に礼を送ってくる。その相伴に、元就は与ることが多かった。「人よりも、ずっと義理堅く、律儀なことよ」 いつだったか、元就がそう漏らしたことがあった。そこより話題が変じてゆき「裏だの表だの、よくわかんねぇ事を言ってる人間の方が、よっぽどややこしいし、怖ぇと思うがな」 その折の会話の中で、元親が言ったのは、そのような内容の事であった。 曰く、妖は何事があっても自分であり続ける。人は、人に合わせて変じようとする。馴染むことは妖もするが、思い悩みすぎて人が鬼に落ちるのは、人が自分であり続けることを見失いながら生きているからだと、この鬼は言った。「面倒なことよ」 その折の元就の返事は、それであった。「律儀なことよ」 今宵の元就の感想も、あの折と同じであった。「与えれば、返す。返されれば、また返す。それだけのことよ」 元親の顔が、剣呑に歪んだ。「恨みも、礼も、か」 杯の中に声を落とし、元就は口をつける。「人も、変わらぬ」 さわ、と夏草が鳴った。「鬼も人も、変わりねぇか」「――――無い、な」 つぶやき、睫毛を持ち上げて「貴様のように酔狂なものは、珍しいが」 薄く、元就の口に笑みが乗っている。「アンタみてぇに酔狂な奴も、珍しいぜ」 うれしげに、元親が言った。「嬉しそうだな」「そうか?」「なれば、楽しそう、と言い換えるか」「どっちも当りだが、どっちも外れてんな」「そうか」「そうだ」 杯に月を映し、人と鬼が、月を愛でる。 2012/06/27※竜神などのくだりは、既刊「白砂青松」の内容です。