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雨の中の旋律 雨は、森に、人に、作物に恵みをもたらす。しかしそれは時折、猛威を奮い襲いかかって来る。氾濫した川に呑まれ、家を、畑を、命を失うこともある。それを阻むために堤を造り、それが決壊しそうだと聞けば、危険を顧みず大切なものを守るために出向き、修復する。
 激しい長雨が続き、真田幸村は念のために川の様子を見に出掛けてきていた。うなる川は渦を巻き、普段は澄んでいる流れを沼のような色に変えてはいたが、堤を越えそうな気配はない。安堵し、戻ろうとした幸村の目に人影が映った。けぶる景色に幻でも見えているのかと思ったが、それは確かに人で、幸村はそちらに足を向ける。
「そのようなところに居ては、危のうござるぞ」
 土手に佇む者は、ゆっくりと幸村に顔を向ける。その顔は、安堵しているようにも諦めているようにも見えた。見た事もない着物を着ていて、見た事もない履物を履いている。
 視線が合った瞬間、幸村は言葉を失う。このまま雨に溶けてしまいそうなほどの、かそけき姿に同じ空間にいないような錯覚を覚えた。
「――――誰」
 佇む者――女は、つぶやく。それに意識を引き戻された幸村は、雨に声がかき消されない距離まで近づき、言った。
「某は、真田幸村。ここは、危のうござるゆえ、家まで送らせていただきまする。さぁ」
 促すと、女は寂しげに微笑み首をわずかに傾ける。
「いかがなされた」
 返事をしない彼女に、幸村も首をかしげる。女は、雨の重さに耐えかねたように、そのまま崩れて地面に伏した。

 女は、ひどい熱を出していた。侍女に頼み、見た事もない着物を脱がせ、床に就かせた後に見舞いに行くと、女は苦しげな息を吐きあえいでいた。枕元に座ると、控えていた侍女は静かに退席し、室内を幸村と女のみにする。そっと額に手を伸ばし、わずかに触れた指先に、驚くほどの熱を感じて眉根を寄せた。
 しばらく見つめた後、立ち上がり障子を開けると侍女が控えており、幸村に一礼をして女の傍による。それを見届けてから縁側に立ち障子を閉めた幸村の横に、気配があった。
「佐助」
 姿を見る前によく知っている気配の名を呼ぶと、にこりとして呼びかけの返事とした後すぐに真顔に戻った猿飛佐助が障子に目を向ける。
「旦那、彼女はいったいなんなわけ」
「わからぬ」
「わからないって――」
「堤の様子を見に行ったら、土手に居たのだ。そのまま放ってもおけぬので、連れ帰った」
「――かわった着物を着ていたけど、大陸の人間かなんかかねぇ」
「わからぬ――わからぬが、一言、俺に向かって誰かと問うたから、言葉は通じるのでは無いだろうか。そのまま、すぐに倒れてしまわれたので、そうとは言い切れぬが」
「ふうん。じゃあ、目が覚めるまで謎のままって訳か。ま、危なそうなものは持っていなかったし、間者ってわけでもなさそうだから――――って、旦那ぁ。どうしたのさ、そんな泣きそうな顔して」
「佐助――彼女は、助かるのだろうか」
 わずかにすがるような目をしたかと思うと、幸村はまつげを伏せて目をそらす。軽くため息をついてから、佐助はことさら軽く聞こえるような声音を出した。
「だぁいじょうぶだって。熱がさがれば、すぐに元気になるって。栄養のついたものを食べさせてさ、ゆっくり休ませてあげれば問題ないよ」
「うむ――そう、だな」
 ぎこちない主の笑みに、佐助はおやと片方の眉毛を上げる。純粋すぎると言っても過言ではないくらいの幸村が、人のことを心配するのは常なることで、道具扱いをしてもいいはずの忍である佐助に過分なほどの――人として扱うには当然な――態度をとることにずいぶんと慣れた彼でも違和感をおぼえるほど、連れ帰った女を気にしているように見える。その理由を図りかね、ふと思い至った結論に佐助は苦笑した。
――――まさか、ね。
 幸村は、年齢よりもひどく幼い部分がある。戦場では恐れられるほどの武勇を持つ彼であるが、普段の彼はそのような気配のかけらも無いことが常であった。そのくせ、男であろうと、武人であろうとする気概は強く、だからこそ守るべきだと認識している弱き者――女や子ども――をより気にかけるところがある。その延長で、彼女のことも気にかけているのだろう。自分の目の前で倒れた相手ならば、なおさら――彼女が幸村に、倒れる前に助けを求めていたなら、より、気にかけてしまっているのかもしれない。
 そうなのだろうと納得し、佐助は話題を変えることにした。
「そういやさ、旦那。堤の様子を見に行ってどうだったか、お館様にはもう、報告したの」
「おお、そうであった。お館様のもとへ行かねば。すまぬな、佐助」
「ん。じゃま、いってらっしゃい」
 足早に、敬愛する武田信玄の下へ向かう幸村の目が、名残惜しそうに障子に向けられたのに、佐助は肩をすくませた。
――俺様も、軽く気にかけておくかな。

 一晩経ち、昼に彼女が目覚めたと聞いた幸村は、すぐに会いに出掛けた。ほとほとと障子を叩くと、侍女がすらりと開けて彼を招きいれ、入れ替わりに縁側に出ながら長居はいたしませぬようにと言う。それに頷き、横になっている女の枕元に座ると、まだ熱に浮かされて潤んだままの瞳が向けられた。
「気がつかれたと聞いて参ったが――具合は、いかがでござるか」
 女が身を起こそうとし、あわてて手のひらを向けてそれを制する。
「まだ、万全ではないのであろう。そのままで、かまいませぬ。喋ることも辛いのであれば、無理に答えなくともかまわぬが――――とにかく、気がつかれて安堵いたした。ゆるりと養生なされよ」
「――――ごめんなさい」
 蚊の鳴くほどの音で、彼女が言う。その目は、幸村に向けられてはいたが、彼の姿を映してはいない。
「何も、あやまることはござらぬ」
「ここは――どこ、なんですか」
「ここは、お館様のお屋敷のひとつなれば、安心してくだされ」
「お館様――」
「甲斐の虎と称されております、武田信玄様にあらせられまする」
 ひゅっ、と細く女が息を飲む。それをしばらく胸にため、ゆっくりと深い位置で吐き出してから、彼女は小さくつぶやいた。
「武田――信玄の、屋敷……」
 深手を負ったような表情に、幸村の胸が痛む。なにかをしたいという衝動に駆られ、すべきことが何も浮かばず、伸ばしかけた手を中空で止めて拳を握った。
「もうすこし回復なされましたら、ゆるりと話をいたしましょうぞ」
 もどかしさにあえぎそうになる呼吸を押さえ、それだけを言うと立ち上がる。去ろうとした背中に、声がかかった。
「ありがとう」
 振り向いた幸村は、自分が泣き出しそうな顔をしていることに気付く。気付き、無理やり笑みを浮かべた。
 返事の言葉を発することが出来ず、無言で部屋を出る。侍女が入ったことを確認し、しばらく障子を見つめてから歩き出す幸村の心に、何かがズクリと疼いて棲んだことを、彼はまだ認識できないでいた。
 それから戦がおこり、幸村は出陣をして彼女の見舞いに行くことが出来なくなった。一月ほど経ってから戻ると、侍女から彼女がすっかり良くなって、屋敷の手伝いを始めたことを聞かされた。すぐにでも顔を見に行きたい衝動にかられたが、帰り着いたのは夜もすっかり更けてしまった刻限で、明朝すぐにでも会いに行こうと決めて休むことにした。しかし、武田屋敷の居住区にある自室で横になり、何度も寝返りを打ってみても目は冴えたままで一向に眠りにつけない。幸村は、体を起こし天井に向けて声をかけた。
「佐助――いるか」
 すぐに、人影が幸村の傍に降りてくる。
「どうしちゃったの、旦那。戦で興奮して眠れないから、子守唄でも歌ってぇなんて、言わないよね」
「俺は、そのようなことを言うほど子どもではない――――気に、なるのだ」
「何が」
「その――――っ、あの女子が……」
「ああ。旦那が拾った奇妙な格好の。元気になったって言われたから、明日顔を見に行くんでしょう」
「――――うむ」
 うなずいたまま顔を上げない主に、佐助がニマリとして顔を覗き込む。
「今すぐ会いたいとか、そういうことですかぁ。旦那ぁ」
「っ――」
 図星だったらしい。小さく息をつめた相手に、やれやれと息を吐いて独り言のようにつぶやく。
「そういやぁ、庭にだれか居たような……ちょっと、旦那がつれて帰った人に似ていたなぁ――――体は元気になったらしいけど、どこから来たのかは言わないらしいし、自分のことも言わないそうだから、思い煩って寝付けなさそうだったって、誰かが言っていたっけ」
 はっとした幸村が、布団から飛び起きる。手近なものを羽織り、急ぎ足で出て行った主の背中を見送って、佐助は頬をかく。
「もしかして旦那にも春がきちゃったのかなぁ――なんてね。さぁて、俺様もそろそろ、休みますか」
 言葉が全て消え去る前に、佐助の姿が部屋から消えた。

 庭といっても、屋敷の庭は広い。幸村は彼女がどこで生活をしているのかを知らなかった。闇雲に歩き回り、もう部屋に戻っているのかもしれないと思い始めたころ、灯篭の横で佇み、空を見上げる彼女の姿を見つけた。
「――――っ」
 声をかけようとして、ためらう。この場にふさわしい言葉を、幸村は持っていなかった。彼女はずっと空を見上げている。かける言葉を見つけることが出来ないまま、幸村はゆっくりと彼女に近づいた。砂を食む足音に気付き、振り向いた顔は、雨にぬれていたときと同じだった。強く幸村の心臓が引き絞られる。得体の知れない息苦しさを味わう彼に、彼女は少し首を傾け、おかえりなさいと言葉をつむいだ。
「あ――う、うむ。その、体調は、よくなられたのだな」
「ありがとうございます」
「うむ。よう、ござった」
 会話が、途切れる。しばらく見つめあった後、彼女の視線が幸村からそれた。
「そなたは――――」
 視線が再び、幸村に向けられる。
「――――そなたは、どこから来たのだ。誰にも何も言わないと聞いたのだが」
 彼女は少し困った顔で笑い、目を伏せる。
「信じられないような話で、私も――――いまだに信じられないんです」
「某は、疑わぬ」
「――――夢の中の出来事のようで、認めてしまえば帰れないような気がして」
「言ってみなくば、帰る方法を探すことも出来ぬのでは――――」
 幸村の言葉に、彼女は軽く首を振り、大きく何かをこらえるように深呼吸をすると、驚くほどに満開の笑顔を作り、ことさら何でもないような口調で言った。
「私ね、違う時代から、来たんです」
「違う――時代……」
「私の生きていた時代では、武田信玄は数百年前に死んでしまった過去の人なんですよ」
 さもおかしそうに言う彼女の姿が、幸村の胸に刺さる。
「信じられないでしょうけど」
「いや――信じよう」
「――――優しいんですね」
 低く彼女の声が落ちる。視線も地面に落ちて、彼女の肩が震えだす。抱きしめたい衝動に幸村は戸惑い、伸ばしかけた手を、あのときのように拳に変えた。
「帰り、たい――のか」
 無言で、うつむいたまま彼女はうなずき、くるりと背を向けて空を見上げた。
「一緒に生きてきた人も、生きてきた場所も、ここには無いんです」
 ふいに口をついて出そうになった言葉を飲み込む。
――――某が、これからの場所になりはしないだろうか。
 自分の中に浮かんだ言葉と気持ちが、どういう名称のものなのかを、幸村はまだ、気付かない。
2010/07/15
ー第二話へー



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